- 出演者
- 村上龍 小池栄子
オープニング映像。
大正13年創業「築地玉寿司」は戦後に一早く明朗会計を打ち出し寿司を庶民の食に変えた。今では都内を中心に31店舗を展開している。出店する場所によってメニューを変えており「築地玉寿司 新宿高島屋店」の一番人気は「レディース御膳」。しかし近年、寿司業界は回転寿司チェーンと高級寿司店とで二極化している。
玉寿司は他店との差別化を模索している。玉寿司4代目社長・中野里陽平は父の後を継いで32歳で社長に就任。大衆寿司店に逆風が吹く中、玉寿司の暖簾を守り続けてきた。中野里は高級店より手頃な値段と回転寿司では味わえないクオリティーに活路を見出しプチ贅沢戦略に取り組んでいる。アイルランド沖で獲れた上質なクロマグロだけを仕入れている。マグロ以外の主要な魚は食品卸売会社・総食から仕入れている。総食は玉寿司担当の買い付け人が全国からネタを探しリアルタイムで画像を送っている。総食は食材全般を取り扱うためここから一括して仕入れることで玉寿司は仕入れコストを抑えている。「築地玉寿司 みなとみらい店」の人気メニューは時間無制限の食べ放題。
食べ放題できっかけを作りリピーターになってもらうのが狙い。また玉寿司は自宅やオフィスなどに板前が出向いて寿司を握る寿司屋台の出張サービスも行っている。毎月に数件の依頼があるという。中野里陽平は「コミュニケーションがあることでうれしさも倍になる、それを実現できるのは町寿司の良さ」だと語った。
玉寿司は関東大震災の翌年の1924年3月に築地で創業。店は東京大空襲で焼けてしまうが戦後に2代目・中野里ことが再建。3代目・中野里孝正が店を大きくする。当時の寿司店では時価が主流だったが孝正は値段を40円均一に設定し明朗会計を打ち出した。さらに末広手巻を発案し大ヒット。寿司の大衆化を進めた玉寿司は次々と店を増やしていった。
現社長の中野里陽平は27歳で玉寿司に入社。店舗開発を任されるとカジュアル寿司店「太老樹」をオープン。しかしその頃、衝撃的な事実を知らされる。当時の売り上げは約40億円に対し、約78億円の負債は抱えていた。
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売り上げの2倍近い78億円の負債が発覚した玉寿司。当時銀行の勧めで投資した不動産の価格がバブル崩壊で大暴落し利息の返済だけで年間の利益が吹き飛んでいた。そこで中野里は中小企業再生支援協議会を頼り、銀行との交渉をバックアップしてくれることになった。玉寿司側は父・孝正の社長辞任と資産の処分を決定。銀行側からは約2000万円の年間利益を翌年から1億5000万円以上にすることという条件が提示された。再生計画書が銀行に受理されると負債の3分の1が免除され利息の支払いもストップしてもらえる。父からは経営では「捨て石」と「要石」を見極めることが必要だと言われたという。
父の社長辞任が決まり4代目社長に就任が内定した中野里。しかしさらなる試練が待ち受けていた。テナントとして入っていた商業施設から契約更新ストップの通告を受ける。そこで中野里は仕入れ改革を打ち出す。仕入れ価格の相場を徹底調査し仕入れ先と価格交渉を重ねる。仕入れコストを大幅に削減できる見通しが立つと新たな再生計画書を銀行側に提出。それが受理され倒産危機を脱した。そこから中野里は攻めに打って出る。イクスピアリに新店舗をオープン。独自の子ども向けメニューを提供するとファミリー客が押し寄せる人気店に。この店が起爆剤となり年間1億5000万円の利益を見事達成。その後10年かけて借金を完済した。
中野里陽平はイクスピアリへの新店舗出店について銀行からは止められたが「失敗したらオーナー権を剥奪する」という内容に実印を押したと明かした。初日に商売繁盛の神様であるフクロウが店に舞い降りたという。
村上は今日の総括は「すしは回さない」。日本橋のまぐろ問屋に生まれた祖父、市場が築地に移転したのをきっかけに、高級すし店を開業。「玉寿司」と名付けた。49歳の若さでこの世を去った「初代」は「玉寿司を頼む」と言い残した。祖母の「こと」さんが「女板前」として店を切り盛りした。1965年に支店の第1号を東急プラザ内に開設。3代目の父親が獲得したテナント。駅ビルとの縁が増し、あっという間に店舗数が30を超える。27歳で入社したが借金まみれだった。ローンを返し、3年間の修業を3ヶ月の研修に変えた。1度も寿司を回したことがない。
カンブリア宮殿の次回予告。